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宗教倫理学会 公開講演会「苦縁─東日本大震災」

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 忙しい日々が続いていたため報告が遅れましたが、3月8日に行われた宗教倫理学会の公開講演会「苦縁─東日本大震災 生と死に寄り添う宗教者たち」の簡単なメモを掲載いたします。

 今回、講師としてお招きした北村鋭敏泰さん(ジャーナリスト・中外日報社特別編集委員)は、ご自身が体験された数多くのエピソードを紹介されながら東日本大震災の意味を探っておられました。一つひとつのエピソードは重い内容を含んでおり、今後、宗教倫理学会の研究会でこのテーマを考えていく際の材料をたくさん与えられました。

 なお、講演のテーマに関係する北村氏の著書も最近出版されましたので、関心ある方はご覧ください。

「苦縁──東日本大震災 生と死に寄り添う宗教者たち」
ジャーナリスト・中外日報社特別編集委員  北村鋭敏泰

1.はじめに
 宗教については素人であるが、社会における宗教の役割についてジャーナリストとして関心を持ち続けてきた。
 「苦縁」とは何か。苦しむ人との間に生じた関係性。被災地への取材の中で、この言葉が生じてきた。無縁社会ということが言われてきたが、震災後もそれはなくなったわけではない。しかし、それがなくなってしまったかのように「絆」が強調された。
 震災以降、死への意識が高まった。中世ヨーロッパにおいて「メメント・モリ」(死をおぼえよ)が語られたのと似たような状況があった。震災後にようやく「無常が身にしみて分かった」という僧侶もいた。
 震災後しばらくたって、生き残った人々が死んだ人と会いたいという光景を数多く見てきた。そうした生き残った人々の悲嘆に宗教者が手助けできるという話を聞き、関心を持つようになった。
 岡部医師によれば「生と死はつながっている」。


2.死者と生者のつながり
 ある住職は、亡くなった人を弔うことこそが生き甲斐であると語っていた。「死者のためにも」と付け加えられていたのが印象的であった。なくなった人たちの霊が私に憑依しているのではないか、とさえその住職は語った。霊魂があるかどうかの問題ではない。目に見えない死者の存在を感じ取ることができるかどうかは重要な感覚ではないか。
 遺体に対し、丁寧に対応していた一人の民政委員がいた。遺体となった息子と面会した一人の母親は絶句し呆然と立ち尽くしていた。この民生委員は、言葉にできないその人に代わって、言葉を発していた。こえは宗教者が担うべき役割ではないか。
 一羽のうぐいすが窓際で鳴いていた。「じいちゃんが帰ってきたのか」という家族の質問に対し、僧侶は「命はすべてつながっているからね」と答えた。
 すべての命がつながっているという感覚は、かつてはやった「千の風になって」に似ているかもしれない。
 葬儀は生きている人たちのもの。戒名も、意味を突き詰めれば、グリーフワークの一つとなる。
 遺体安置所で読経を続けていた僧侶は、「みな、死者との関係で納得しようとしている」と語っていた。
 サバイバーズ・ギルトにどのように対応できるのか。悲しみは完全にはなくならない。思い出を語れるようになってはじめて、悲しみを抱えながらも生きていくことができるようなる。
 震災後、幽霊の話がたくさん聞かれた。宗教の原点は死者供養ではないか。死んだ人に対する無念の思いが幽霊を生み出しているのではないかと語る人もいる。


3.死への宗教者の寄り添い
 宗教者はどのような働きをするのか。生き残った人と死んだ人との関係をどのように再構築するのか。
 死んだ人はどこに行くのかと、ある僧侶は問われた。あなたはどう思うのか、という問い返すことにしているという。そこから、それぞれの死生観が形成されていく。その人がもっているスピリチュアリティをいかに引き出すか。また言葉にならない深い悲嘆に、いかに言葉を与えるか。
 僧侶に対して「お父さんは神様のもとに行かれた」と言われ場合、僧侶はどう答えるべきなのか。教義的な正しさではなく、人の思いを否定しないという姿勢が大切。
 被災地支援をしている宗教者の多くは、信仰が強まったと語った。
 3ヶ月で600人の葬儀をした寺もあった。葬儀で大事なのは、送り出す側の心の問題である。
 火葬されずに土葬された遺体もたくさんあった。宮城県ではかつては土葬であったが、今ではほとんどが火葬なので、土葬に対する抵抗は強かった。いったん土葬されたものを掘り起こして、火葬したケースも少なくなかった。それは地獄のようなさまであった。
 震災前は葬式不要論がしきりに言われたが、震災後は葬式の重要性やその内実に関心が向けられることになった。
 「共苦」、死者を思う想像力こそが、生者にも命の尊さを実感させることになる。墓も大切な役割を果たしている。
 墓地が壊滅した寺もある。しかし、先祖がいるこの場所が大事だということで、寺の再建に尽力している。遺骨に対するこだわりがある。お骨は、子どもたちに生き残ったことの価値を教える糧になる。


4.いのちへの伴走
 祈り、傾聴は宗教の力であると言える。
 比叡山宗教サミット、祈りの集いに参加するたびに、「祈るだけで行動しないのでは意味がないのではないか」と思ってきたが、震災後は、祈りの力を考え直すようになった。
 祈りだけで、空腹がみたされたり、瓦礫が片づくことはないが、祈りによって自分を見つめ、他者の痛みを感じとることができるかもしれない。
 祈りにとどまらず、現実に応答すべきではないかという声もある。しかし、物理的なケアではいかんともしがたい苦悩も存在している。それに対応することが宗教者の役割ではないか。
 災害は大きな宇宙の真実の一部であると宗教者は心得ていなければならないが、それを被害者に対して語ることはできない。
 寄り添うという利他の行為は何であってもよい。内面こそが重要。震災後、宗教者が心のケアを求めれるようになったが、それが宗教者の仕事のすべてではない。精神的なものだけでなく、すべての苦に対応すべき。宗教者はどんなことがあっても逃げてはならないのではないか。


5.見えてきたもの
 黄金律。他人にしてもらいたいことも、あなたも他人にしなさい。
 キムセヨクム(トルコの支援団体)は、イスラーム的な理念に基づいて支援活動を行った。困っている人を助けなければならない。
 苦難をもとに生まれた新しいつながりが「苦縁」であると言える。信仰は心の内なる指針であり、宗教はその外在化である。
 ボランティアが宗教者に近づいたというような状況がある。では、なぜ宗教を持ち出す必要があるのか。現場の人は宗教者としてではなく、ただ人間として行ったという感覚を持っている。
 災害ユートピア。災害時において人は利他的になる。しかし、宗教者はこの世がすでに災害の状態にあることを知っている。したがって、災害時の支援も宗教者にとっては日常の延長にある。
 キーワードは「行って」。宮沢賢治の「アメニモマケズ」の中の言葉。あるいは、聖書の「よきサマリア人のたとえ」の中にある言葉。理屈抜きに「行って」手助けする。
 「ここがロドスだ、ここで飛べ」(イソップ物語)。困っている人を助けるのに理由がいるのか。日常という災害の現場に行って「苦縁」を結ぶことが、私たちには求められているのではないか。

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