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講演「キリスト教学校の危機と神学の課題」(森 孝一)、日本基督教学会 近畿支部会(同志社女子大学)

 2016年3月28日、日本基督教学会 近畿支部会が同志社女子大学を会場として行われました。その一部として行われた森 孝一先生(神戸女学院 理事長・院長)による講演「キリスト教学校の危機と神学の課題」のメモをつけます。キリスト教教育にかかわる現代の課題をわかりやすく抽出するだけでなく、それが前提としている歴史的な過程についての言及もなされており、大変多くのことを考えさせられました。

 ちなみに、私は関西学院大学の神田健次先生と共に、コメンテーターとして登壇しました。


●道徳の「教科化」までの経緯と現状
 2013 年2 月26 日、政府の教育再生実行会議による「いじめ問題等への対応について」(第一次提言)。いじめ問題への対応として、「道徳(徳育)の教科化」が提言された。
 文科省は2013 年10 月17 日に「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置し、「道徳の教科化」の必要性を中央教育審議会(中教審)に報告。中教審は審議の結果、1 年後の2014 年10 月21 日に、「道徳の教科化」について文部科学大臣に答申を行った。その内容は、現在は正式な教科ではない小中学校の「道徳の時間」を、数値評価を行わない「特別の教科」に格上げし、検定教科書を導入する。答申を受けて文科省は学習指導要領を改定し、早ければ2018年度からの教科化を目指す。
 「道徳の時間」は1958 年に小学校・中学校に新設。ただし、宗教系の私立小学校・中学校は、「宗教(科)をもって道徳に代えることができる」(学校教育法施行規則第50 条第2 項、第79 条)。政府の「道徳の教科化」の審議状況についての情報によると、宗教系私立学校においては、宗教科をもって道徳科の代替とするという現在の方針は継続される模様。
 高校に関しては、高校における新科目「公共」が、2016 年度告示される新指導要領で導入予定。小中の道徳教育の継承、18 歳の選挙権対応等。「道徳」ではないので宗教科による代替措置はないかもしれない。キリスト教学校でも「公共」の授業を設置する必要があるかもしれない。

 

●キリスト教学校における「危機」:終戦まで
 神戸女学院を設立したのはアメリカン・ボードから派遣された二人の婦人宣教師であった。彼女たちが派遣されたときには、キリシタン禁制の高札は撤去されていなかった。日本に伝道することが第一の目的であったが、教会ではなく学校を作った。
 その当時のキリスト教は、アジア、中東、アフリカ地域を「文明化」するという目的を持っていた。問題は「文明化」の中身である。また、文明化とキリスト教はどのような関係を持っていたのだろうか。
 著書『宗教から見たアメリカ』の序章において「アメリカ文明」について記している。1898年、アメリカはスペインと戦争する。発端はキューバ。キューバの独立を助けるという名目でアメリカは出兵する。フィリピンにも出兵する。これらがアメリカの外交政策の転回点となる。それまではモンロー主義(外交を南北アメリカ大陸に限定していた)であった。モンロー主義はある種の「鎖国」をして国力を高めようというものであった。

 モンロー主義をやめた最大の理由は経済である。国内生産力が拡大し、海外市場が必要となってきた。フィリピンへの出兵を正当化するための大義としてあげられたのが「文明化」である。アングロサクソン文明を未開の地に伝えていくのがアメリカの使命であると考えられた。
 文明化の中身の一つはキリスト教であり、もう一つは共和制・民主制であった。
 日本にやって来た宣教師たちはキリスト教の伝道と民主制の伝授を考えていた。
 初期の神戸女学院では、女子学生たちに(自律した女性となるために)背筋を伸ばして歩くよう指示した。そのことは、同志社の設立者である新島襄の言葉「良心の全身に充満したる丈夫の起こりきたらんこと」とも理念的には関係している。共和制を支えるのは自律した(self-governed)市民だという考え方が背景にある。
 自律した市民の対極にあるのが専制政治、全体主義である。歴史的にアメリカが戦ってきたのは、すべて専制政治に対してであった。

 

 明治政府の近代化政策は、以下の大日本帝国憲法の条文に反映されていた。神道は宗教ではなく、国民の道徳とされた。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第28 条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

文部省訓令第12 号(1899 年、明治33 年)「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」
 各種学校なら宗教儀礼を行ってもよいが、法令学校であればそれは許されない。キリスト教主義学校は厳しい対応を迫られることになった。

 

●国定教科書『私たちの道徳』と宗教科
 宗教系私立学校において、宗教科のクラスをもって「道徳」に代えることができると考えられている。では、『私たちの道徳』を使うのか、使わないのか。選択肢は次の三つ。
1)『私たちの道徳』は使わない。文科省による「道徳の教科化」を無視して、現行通り、宗教科の教育を行う。
2)宗教科は廃止して、道徳科を設置する。もちろん、教科書は使う。
3)宗教科を道徳科の代替とし、宗教科の中で『私たちの道徳』を使う。
 宗教科の教師の多くは1)を選択したいと考えるに違いない。しかし、『私たちの道徳』を使わなければ補助金をカットされる可能性もある。
 個人的には3)を選択したい。教科書を「批判的に」使えばよい。
 教科書の中で愛国心は重要である。「国を愛する」ことを考えることは、キリスト教教育にとっても大切ではないか。この教科書は、とてもよくできている。
 キリスト教学校で「国を愛する」ことがどのように教えられているだろうか。

 

●神学における「国」の位置づけ
 戦前の体験がトラウマとなって、戦後の教会は国を対象化してこなかったのではないか。国をすっとばして、人類や世界を考えてきたのではないか。
 戦前まで、日本のキリスト教にとって「国」は大事なテーマであった。以下のような例がある。
・内村鑑三の「二つのJ」(Jesus とJapan)
・Doshisha College Song "For God, for Doshisha, and native land"

 

 具体的に、どのように「国を愛する」ことを批判的に考えることできるのか。
 靖国神社の問題は素材となる。戦時中、治安に維持法で逮捕された人たちは「愛国者」ではなかったのかどうかを考えることもできる。創価学会では牧口常三郎は戦時下において獄中死している。創価学会と共に問題を考えることができる。キング牧師は愛国者であったのか。米国ではキングを記念した休日を制定することによって、投獄されたこともある彼を愛国者として認めることになった。西郷隆盛は愛国者であるが、靖国神社には祀られていないことも考える素材となるだろう。

 

●キリスト教学校における「危機」:現在
1)「自由教育」を確保できるか?
 本格的に戦った場合、補助金が全額カットされるかもしれない(神戸女学院の場合、補助金は予算総額の7%)。その覚悟を持てるかどうか。

 

2)入学定員を確保できない。経営上の危機
 「2018 年問題」とキリスト教学校の二極化。マンモス学校とそれ以外の学校との格差が大きくなっている。
 1991 年の大学設置基準の緩和の結果、1985 年には450 校程度であった大学数が、2009 年には800 校弱にまで増加。関関同立4大学の入学定員の増加率は2004 年度比で約9.1%(学部新設による)。10 年足らずで関関同立の入学定員は3000 人増。中小大学の受験生がここに吸い上げられ、結果的に受験者集めに苦労している。
 解決策の一つは、マンモス校が地方のキリスト教学校を系列校にするか、推薦入試で受け入れるようにすることである。しかし、手をこまねいている間に、非キリスト教系のマンモス大学が地方の学校を系列に入れ始めている。

 

3)キリスト教学校を支えるキリスト教徒の教職員の不足

 どの学校においても、キリスト教徒の教職員の数は圧倒的に少ない。この現状をどのように変えていくことができるのか。

 

●教会、キリスト教学校、牧師養成機関における「危機の連鎖」

 教会、キリスト教学校、牧師養成機関である大学・神学校において、上述の危機は連鎖している。

 

●危機に対する対応についての神学的考察
 教会を変革する必要があるのではないか。キリスト教育を好意的に考えている教職員を教会に招き入れる。祭りの見物人から、神輿を担いでもらう人になってもらう。
 一般の教会に行って、つまずいて帰ってくる場合が少なくない。それでは、思い切って特定教団に属さない「学園教会」を作ってはどうか。そうすれば教団のかたくなな教義から自由に発想でき、様々な「実験」をすることもできる。
 従来の教会にとっては、洗礼がメンバーシップの条件であった。「学園教会」では、メンバーシップとクリスチャンであることを切り離すべきである。教会を自分にとって大切な場であり、そのメンバーとなりたいという意思をメンバーの条件とする。「献金」とは区別される「会費」を出してもらうことによって組織を運営することができる。
 「受洗者を中心とした教会」というイメージから解放されるべきではないか。従来の教会論を変化させることによって、キリスト教への理解者の裾野を広げることができるのではないか。

(以上)

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