小原On-Line

小原克博: 2006年4月アーカイブ

 続きです。
 「ダ・ヴィンチ・コード」についての講演会をするというのは、一種の便乗商法のように思われるかもしれませんが(もちろん、そういう部分もありますが・・・(^_^;))、こうした講演会を企画するに至った理由があります。
 私は、どちらかという流行のものにすぐに飛びつかない方なのですが、2年前、小説の「ダ・ヴィンチ・コード」が国内で刊行されてから、よくこの本について聞かれました。まだ、この小説を読んでいなかったときには「読んでいないので、わかりませんね~」という感じでごまかしていたのですが、あまりにも聞かれる頻度が多くなり、これは読んでおこうと、一気に読みました。ほぼ徹夜の状態で、まさに一気読みして、この小説のおもしろさをようやく自分で感じ取ることができました。
 それから授業で取り上げたりして、学生の反応が非常によいのを経験したりしている内に、映画化決定、そして、いよいよ上映開始となり、これまでの感じてきたことを、やはりまとめておくべきだろうと思った次第です。
 賛否両論ありながらも、キリスト教を素材としたこれほどの話題作は、めったにあるものではありませんから、やはり、ある種の説明責任というものを感じています。

 以下、今回の講演会を企画するに際の趣意書の一部を紹介しておきます。細部については、順次、紹介していくつもりです。

 今話題となっている小説および映画の「ダ・ヴィンチ・コード」を素材にして、キリスト教神学のおもしろさを伝えることを目的とする。「ダ・ヴィンチ・コード」と同様に話題となっている「ユダの福音書」グノーシス思想の影響を受けているという共通点を持っているので、「ユダの福音書」も関連素材として取り扱う。
 プログラム前半の講演部分では、小原が導入を兼ねて、キリスト教思想(救済論・グノーシス思想等)や現代キリスト教事情(カトリックや保守派キリスト教の動静)の視点から「ダ・ヴィンチ・コード」とその影響についての分析を行い、また、越後屋先生には聖書学および考古学の視点から語ってもらう。「ユダの福音書」についても、越後屋先生に重点的に扱っていただく。
 アメリカを中心に、世界の各地のカトリック教会や保守系プロテスタント教会では、イエスの神性を冒涜するとして抗議運動が起こったり、あるいは映画「ダ・ヴィンチ・コード」の上映を伝道の機会としようとする動きが見られたりする。
 高まる議論は欧米世界に限定されない。隣国の韓国では、韓国基督教総連合会(韓基総)が4月はじめ、「ダ・ヴィンチ・コード」の上映禁止仮処分をソウル中央地裁に申請した。日本の福音派教会でも、「ダ・ヴィンチ・コード」への批判論が強まっているが、実際にそれを読んでいる人は多くないと聞く。
 いずれにせよ、「ダ・ヴィンチ・コード」への関心は、クリスチャンに限定されない社会的現象となっており、一般市民においても、この作品、その背景や影響に対する関心は高いだろう。その点では、「ダ・ヴィンチ・コード」は、かつてキリスト教世界で論争の的となった映画「パッション」や「最後の誘惑」をはるかに上回る社会的関心を喚起していると言える。

 新学期が始まって、予想通り、猛烈に忙しい日々が続き、体調を崩しながら、息も絶え絶えの状態で、ようやくゴールデン・ウィークにたどり着いたという今日この頃です。
 今学期は、9つの授業を担当していますが、これって、かなり殺人的なスケジュールです。泣き言をいってもどうしようもありませんから、慣れていくしかありません・・・(泣)

 というわけで、このBLOGもしばらく書き込みできずにいましたが、今日は新しい情報をお知らせします。6月に予定されている講演会についてです。
 まずは以下のように概要をお知らせいたします。私が考えていることについては、これから、少しずつお伝えしていきたいと思います。今書店では「ダ・ヴィンチ・コード」の解説本が各種で回っていますが、それらでは知ることのできないような知的興奮を与えるような講演会にしたいと願っています。

■同志社大学神学部・神学研究科 公開講演会
「ダ・ヴィンチ・コード」を読み解く
――キリスト教思想・聖書学・考古学の視点から

日時:6月10日(土)10:00~12:00
場所:同志社大学 今出川校地 神学館礼拝堂
講師:
 小原 克博(神学部教授)
 越後屋 朗(神学部教授)
※入場無料・事前申込不要
問い合わせ:神学部事務室(075-251-3330)

 今日は、京都民医連中央病院倫理委員会があり、終末期医療におけるDNR指示について議論しました。
 DNR指示とは"Do not resuscitate order"の略で、終末期医療において(心肺が止まっても)心肺蘇生をしないという指示のことです。
 なぜ、このことを急に議論にしたかというと、3月、富山県で医師が患者の人工呼吸器を外し、それによって患者が死亡した事件が報じられ、それをきっかけに尊厳死を法制化する動きが加速しているという事情があります。
 尊厳死協会などは「患者が意志決定できない場合には、家族らが意志決定を代行できるよう法律で規定するのが望ましい」との見解を「尊厳死法制化を考える議員連盟」に提出しています。
 他方、安楽死・尊厳死法制化を阻止する会では「生命を短縮するのは周囲の人が楽になりたいだけ。人工呼吸器を外されて死んでいく患者の苦しさも考えるべきだ」とコメントしています。
 こうした対立した見解が明らかにされ、議論が交わされていくのは必要だと思いますが、一気に法制化にまでもっていきたい保守派議員たちも大勢いるようですので、事態は急を告げているという面もあります。

 DNR指示についての包括的なガイドラインは国内ではまだ存在していないようです。今後、尊厳死の議論がなされていく中で、モデル的役割を果たすことのできるガイドラインを作ることができればと思っています。
 今日は、もっぱら情報の整理とブレーンストーミングでしたから、具体的な案を検討するのはまだ先です。
 メンバーには、この分野にめっぽう強い社会学者の立岩真也氏(立命館大学)もいますので、委員長の私としては、心強い限りです。読売新聞の記者もさすがに情報通で大いに助けられています。

060415 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(明石書店、2006年)の中の尹東柱(ユンドンジュ)をテーマとしたコラムに、私が撮影した尹東柱詩碑の写真が掲載され、一冊本をいただきました。
 その写真はこのBLOGで公開されたもので(→2005年2月15日記事参照)、それに目をとめられた明石書店の方がオリジナルの画像データを求められたという次第です。
 実は、このBLOGに載せた写真が書籍に掲載された例は他にもあります(イスラエルのシナゴーグ写真)。

 写真はともかくとして、右のコラムは尹東柱のよい紹介となっています。
 この本全体が、歴史教科書として非常に読みやすく構成されています。在日コリアンの歴史は、言うまでもなく、日本の植民地主義政策と深い関係を持っており、そこから第1章は始まっています。
 日本近代史を、在日コリアンの視点から見直すことができるという点でも、多くの人に読んでもらいたい内容を備えています。

 今日は1・2回生向けの講義科目で、登録者数が予定していた教室のキャパシティを越えたため、急遽、教室変更しました。かなり混乱しながらも280名ほどの学生が教室に入り、その後、出席確認のために出席票を一人一枚ずつ取るように念押しして回しました。
 途中で出席票がなくなったので、追加し、合計350枚の出席票を回したのですが、それが全部なくなり、足りない人がなお30人ほどいました。つまり、250名の学生が350枚の出席票をとったことになります。
 このあとにあった会議で、M先生にこの件を話すと「そりゃ~、学生を信じたらあかんで~」と一言。

 これほどの出席票が消え去ったのは、想定外の出来事で、ちょっとショックでした。
 最後にオチを。
 この授業、何を隠そう、同志社の「建学の精神」を教える同志社科目でした。新島襄がこの様子を見たら、泣きますね。

我が校の門をくぐりたるものは、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、教育家になるもよし、文学者になるもよし。少々角あるも可。気骨あるも可。
たかだか優柔不断にして安逸をむさぼり、いやしくも姑息の計をなすがごとき軟骨漢には決してならぬこと。これ予の切に望み、ひとえに願うところなり。
        新島 襄『片鱗集』より

 次の授業の時は、この新島の言葉を学生諸君にプレゼントしたいと思っています。

 小原克博 On-Line に「チャペルアワー案内」の「聖書のことば」を掲載しました。きわめて短い文章なので、こちらにも載せておきます。

 聖書の言葉は、イエスによる「神の国」のたとえ話の一つ。当時の宗教家たちは「神の国」について神学的、形而上学的に議論を戦わせていました。そんな「神の国」論議に対する痛烈な皮肉も、このイエスのたとえには含まれています。
 「もっと、足下見てみぃや~」というイエスの声が聞こえてきそうな箇所です。

(以下、「チャペルアワー案内」より引用)

神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコによる福音書4章26―27節)

 私は野菜や果樹を作ることを趣味にしているが、よい収穫のためには土作りを欠かすことができない。化学肥料は実を大きくしたりする上で確かに速効性がある。しかし、長い目で見ると、土全体を貧弱にしてしまう場合が多い。私はコンポストで生ゴミ等をたい肥にして、オリジナル・ブレンドの土作りを楽しんでいるが、土が自ずと実を結ばせる不思議にはいつも新鮮な驚きを与えられる。

 人を育てるにも「土」にあたるものが大事だ。速効性ある教育は今の流行であるかもしれないが、右の聖書のことばから何を聞くべきか。私は十年、五十年という年月が経って、その実りを驚きをもって味わうことができるような「土」作りに携わりたいと願っている。

 先日の朝日新聞に「ユダ、イエスを裏切らず」というタイトルの記事がありました。微妙に文章は違いますが、ほとんど同趣旨の記事をasahi.comで読むことができます(下記リンク)。
 放射性同位体による年代測定により、紀元後220~340年に書かれたと判断された「ユダの福音書」の約8割が解読された、というのはかなり興味深いことです。
 ただし、この記事にも少し説明があるように、「ユダの福音書」は当時地中海世界で流行したグノーシス思想の影響を受けて書かれており、「ユダの福音書」には、グノーシス思想から見たイエス像・ユダ像そして救済理解が記されていると考えたよいでしょう。したがって、「ユダの福音書」の解読結果に従って、ユダこそが救済を完成させる役目を負ったもっとも重要な弟子であった、ということは簡単にはできません。

 しかし、「ユダの福音書」の解読を待つまでもなく、これまでも数々のイエス伝(小説)で、ユダを裏切り者としてではなく、特別なミッションをもったものとして描くこと話されてきました。同じように、マグダラのマリアも、後世の人々のイマジネーションを激しく刺激した人物の一人です。
 5月に映画が公開される「ダ・ヴィンチ・コード」でも、マグダラのマリアは想像力豊かに描かれています。このあたりが、聖書に対する冒涜であるとして、目下、保守派の教会が「ダ・ヴィンチ・コード」に対する反対運動を展開しており、こうした21世紀的反応も興味深いものがあります。

 なにはともあれ、リンク切れになる前に下記の記事をご覧ください。

■ユダは裏切り者じゃない?
http://www.asahi.com/international/update/0407/006.html

060406 ローマ教皇庁立聖書研究所のノイデッカー教授が同志社を訪ねてくださいました。
 保守的と言われている上記研究所の中では異色の人物だと思います。禅仏教とイスラームのスーフィズム(神秘主義運動)の発想を取り入れながら、旧約聖書の解釈をした本を書いています。近々、その第2版が出版されるとのこと。
 バチカンでの反応はどうですか、と聞くと「沈黙だね」と応えていました。やはり、他の宗教を取り入れたような研究スタイルに対してカトリックは警戒心が強いようです。
 カトリック司祭が京都に禅をしにやってくる、といった類の交流はありますし、また、ヨーロッパのカトリック世界でも禅仏教は比較的よく知られているはずですが、その一方、他の宗教とカトリック信仰との混合に対する警告の声も時々耳にします。
 その急先鋒がラッツィンガー枢機卿でした。
 そのラッツィンガー枢機卿、つまり、今の教皇ベネディクト16世とノイデッカー教授は旧知の仲とのこと。同じドイツ人同士ですから、交流も深いようです。「彼は実にシャイな人物だったんだけどね」と語っていました。今はそれほどシャイには見えませんけどね。

 バチカンの空気に触れるよい機会となりました。
 ノイデッカー教授はしばらく日本に滞在されます。

 今日はヘブライ語がご専門の小久保先生(大阪大学等非常勤講師)からイスラエルにおけるムハンマド風刺画問題の反応を聞くことができました。
 ヨーロッパにおける「表現の自由」の主張に反発して、イランのアフマドネジャド大統領は、ホロコーストについての風刺画コンテストを開催しました。彼は「言論の自由」とヨーロッパ人たちは言うが、実際にはホロコーストを特別扱いしているではないか、と言いたかったわけです。
 この一種の反イスラエル・キャンペーンに対して、イスラエルでは目立った反応(反発)はほとんどなかったとのこと。私が驚いたのは、イスラエル人が自らホロコーストを茶化すような風刺画を描いているということでした。Israeli Anti-semitic Cartoons Contestというのが開催されており、そこにはこんな風刺画があっていいんだろうか?!と驚かざるを得ないようなものが多数あります。
 小久保先生が紹介してくれたのは、その内の一つで、ガス室に送られるユダヤ人の列を描いたものです。イスラエル人は列に割り込むのが日常茶飯事らしいのですが、この風刺画ではガス室への列に割り込もうとするユダヤ人が描かれています。同じ風刺画をドイツをはじめヨーロッパの国でマスコミが掲載したら、一発でアウトでしょう。
 ヨーロッパ(特にドイツ)では「加害者」であるがゆえに、「表現の自由」を厳しく自己規制し、他方、イスラエルでは「被害者」であるがゆえに「表現の自由」が大きく担保されているという対比構造を、ここに見ることができます。
 「表現の自由」「言論の自由」はいきおい人類普遍の権利として主張されるのではなく、それがどのような文脈で問題とされているのかを丁寧に検証する必要があることを、あらためて考えさせられました。

 また、同席していた手島先生(ユダヤ学)から学んだことですが、ホロコーストを持ち出すのはもっぱら世俗的ユダヤ人とのこと。たとえば、「ホロコースト神学」は神を否定する思想だとのことです。宗教的なユダヤ人がホロコーストを強調することはないのだそうです。このあたりの事情も、日本ではほとんど理解されていないと思います。興味は尽きません。

 4月1日は例年だと桜が満開の手前くらいなのですが、寒い日が続いたせいか、まだちらほらとしか見ることができません。ただし、早咲きの桜は早満開だとの情報も。たとえば、御所の一部の桜は満開に近いとのことでした。京都であれば、今週末くらいが一番いい頃かもしれません。

 昨日の朝日新聞に「「祈り」の効果なし? 心臓手術、米で1800人研究」という記事を見ました。この手の研究はこれまでも繰り返しなされているのですが、わざわざ朝日新聞がこの記事を載せたというのは驚きでした。魂の重さを量る実験と同様、たわいもないテーマだと思うだけに、日本の新聞がわざわざこの手の記事を載せると、何か別の意図があるのではないか、と疑ってみたくなります。

 というのも、同じ日、オピニオン欄には哲学者のジジェクの「欧州とイスラーム――他者の信仰を尊ぶ無神論」という記事も掲載されていたからです。論点はいくつかありますが、一つは無神論の賞賛です(無神論こそ他者に対して寛容であり得る)。また、イスラムを尊敬するが故に、イスラムを厳しく分析対象とするべき、という主張ももっともらしくは聞こえるのですが、これで解決の糸口が見つかるのでしょうか。

 無神論万歳で、人々がみな寛容になり、相互に尊重し合うことができれば、まったくめでたいことですが、現在の社会を見ていると、とても簡単に信じる気にはなれませんね。

060331 季節的には春だというのに、またもや雪がふぶき、桜の花が咲くはずの山も、右の写真のように雪化粧をしています。これが最後の雪だとは思いますが・・・
 以前の桜予報では今頃とっくに桜が咲いているはずなのですが、予報を裏切る開花となりそうです。
 4月1日、入学式の日はお天気になりそうです。

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自己紹介

近  著

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