小原On-Line

小原克博: 2005年11月アーカイブ

051130a 紅葉した山肌を背景に虹が架かっていたので、数枚写真を撮りました。虹の微妙な色合いを鮮明に撮影するのは至難の業ですが、一応、虹らしきものが写真中央に見えるかと思います。ちなみに、背景には比良山系(頂上にはスキー場があります)、右には琵琶湖が写っています(クリックして拡大してみてください)。
 下の写真は虹の部分をズームしたもの。少し虹らしく見えるかと思います。
051130b わたしの家の周辺は、山と湖に挟まれていますので、少し雨が降ると、かなり頻繁に虹を見ることができます。それでも、見飽きることはないですね。古代の人が虹を見て、様々に想像をたくましくしたことも、うなづけます。
 ちなみに、聖書に記されている古代ヘブライ人たちは、虹を見て、もやは地上の生き物を滅ぼすことはしない、という神の人間(ノア)に対する約束のしるしとして理解しました。あの地方では、雨が降ることもまれですから、ましてや虹を見るなんて、めったになかったと思います(ひょとすると一生に数回?)。それだけに、虹と遭遇したときの驚き・喜びは並大抵のものではなかったと思います。

 このブログも、本当は、小難しい話しを書き込むのではなく、わたしがふらふらと歩きながら撮った風景写真でも載せた方がよさそうなものですが、なかなか、そのような時間はとれませんね・・・

051127 今日は、 国立民族学博物館で開催された国際ワークショップ「ヨーロッパにおけるムスリム・コミュニティ」に参加してきました。
  国立民族学博物館は、万博記念講演の中にあるのですが、訪れたのはかなり久しぶりでした。なつかしい太陽の塔は、昔と変わりません。
 1970年に開催された大阪万博に行った記憶が残っているのですが、やはりその当時も(5歳の頃)太陽の塔の圧倒的な存在感を感じました。

 今回の国際ワークショップには、イギリスおよびフランスから専門家が参加し、まさに旬の貴重な話を聞くことができました。ロンドンにおけるテロ、フランスの暴動などは、ヨーロッパの多文化主義や同化政策を根底から揺るがす事件となりました。
 お二人ともムスリムの扱いについては慎重でしたが、第3世代になるとそれなりに「西洋化」されており、ムスリム・アイデンティティはあまり重要な役割を果たしていないとのことでした。むしろ、差別、失業率の高さなどの問題に目を向けるべきであると。
 しかし、かつてなら人種差別とされていたことが、なぜ今日「イスラム」が引き合いに出されるのか、ここには考えるべき大きな課題が横たわっていると思います。

 ともかく、情報としては非常に多くのものを得ることができました。来年度のCISMORの地域研究テーマはヨーロッパなので、その点でも、大いに参考になりました。

 昨日の朝日新聞に鶴見俊輔氏のインタビュー記事が掲載されていました。「戦後60年を生きる」というテーマのもと、鶴見氏の戦争体験や原爆批判などが紹介されていました。もともと、彼の考え方には共感するところが多いのですが、今回、目にとまったのは、「国家」に対置する「くに」を構想している次のような箇所でした。

出雲風土記や万葉集に出てくる「くに」です。「おくにはどこですか」というときの、そのあたり一円を指す「くに」。そこに生きて死んだ人々の記憶が息づく「くに」。国家じゃない。グローバリズムとは正反対のローカリズムです。風土記の「くに」から世界を再編していくことに今後の希望があるんじゃないかな。

 国家概念を相対化する視点として「くに」を持ってくるところに、鶴見氏の隻眼があると感じました。
 国家主義、ナショナリズムへの批判は、(わたしを含め)リベラルな立場の人が意気揚々とやってきたことですが、代替案を具体的に示さなかったこの種の批判が、結果的に、現在の日本社会における全体的な右傾化傾向を作り出してきたのではないかと思っています。
 リベラリストとしての鋭角的な社会批判が、皮肉にも、ナショナリズムへの渇望や右傾化傾向を生み出してしまってきたとするなら、その責任の一端を負わなければならないと最近、感じていたところでした。それだけに、鶴見氏の指摘は、小さな提案とはいえ、わたしには触発する素材となりました。
 この問題については、引き続き、考えていきたいと思います。

 本日11月20日で、ついに40歳となりました。我ながら信じがたいですが、ここまで生きて来れたのは、やはりめでたいことだと思います。
 自分で言うのは恥ずかしいのですが、精神年齢は20代の頃と基本的にはかわりませんので、いつまでも自分は若いと思い続けてきました。しかし、さすがに40歳となると、立派な中年おやじですね。この現実がまだ十分に自覚できていませんが・・・

 ともあれ、40歳という節目を迎えて思うことはいろいろとあります。なんと言っても、「少年老い易く学成り難し」。この一言に尽きます。
 30歳から職業として研究の道に入り、それから10年も経ってしまいました。大学生の頃から考えると、およそ20年もの年月が過ぎています。いや~、何を勉強・研究してきたのだろ~?とふと立ち止まったときに感じる空虚感があります。
 確かに、この10年間、20年間忙しくしてきたように思います。しかし、最近のことを考えてみても、研究というよりは雑務に費やす時間の方が圧倒的に多いです。これではイカン!との思いを今、強く持っています。
 一体、今まで「事務局長」やそれに類する仕事をいくつしてきたことか。様々な修羅場をくぐりぬけてきたおかげで、事務処理能力は飛躍的に向上していると思うのですが、それは研究者としての価値とは関係ありません。

 これからはより本業に専念するための環境作りをし、社会に対しても意味のある研究成果の還元を積極的に行っていく必要のあることを強く感じています。
 結果はともかくとして、誕生日というのは、こういう夢を描くことができるので、やはり大切ですね。(^_^;) がんばるゾ~!

051119 今日は、同志社びわこリトリートセンターで、マレーシア国際イスラーム大学の学生さんたちに対する最初の講義がなされました。同志社の学生さんやスタッフも含めて、13名の参加者に対し、龍谷大学のデニス廣田先生が、仏教に関する講義をしてくださいました。
 マレーシアからの学生さんたちは、仏教についてはほとんど初心者であるため、基本的な話しから始められたのですが、あらためて、基本の大事さを感じました。わたしにとっては、ほとんど知っていることとはいえ、あらためて仏教のエッセンスを語られると、いろいろと連想を駆り立てられ、わたし自身にとっても、よい学びのひとときとなりました。
 一つ感心したことは、マレーシアの学生さんたちが、非常に積極的に質問していたこと。初学者であるにもかかわらず、だいたいが的を射た質問でした。こうした積極性は、日本の学生にもぜひ見習ってもらいたいものです。

 昨日、わたしは(かなり!)重たい物をもったときの姿勢が悪かったらしく、ぎっくり腰になってしまいました。じっと座っていても、歩いても腰が痛いというトホホ状態です。

051118 同志社大学神学部と学術交流協定を結んでいるマレーシア国際イスラーム大学から学生5名(全員女子学生)が京都にやっていきました。これから、10日ほど京都を中心としたプログラムに参加されます。
 仏教・キリスト教・ユダヤ教・日本の文化を学んだり、ホームステイ、観光をされたりします。
 写真は歓迎レセプションの一こまです。空港から到着したばかりだったのですが、若さゆえか、みなとても元気でした。
 国際イスラーム大学では、比較宗教学などの授業もあるのですが、イスラームが国教の国ですので、ユダヤ教や仏教については学ぶ機会がありません。日本にやってきて、彼女たちが、こうした宗教について、比較的本格的なレクチャーを受けることができるというのは、すばらしい文化交流だと思います。
 2年前に、中田先生とわたしが国際イスラーム大学を訪ね、学長や学部長たちと学術交流協定についての交渉を開始し、今年、森先生がマレーシアに行って協定の調印を行いました。その成果が、早速、このような形で実りつつあり、うれしく思っています。
 明日から、同志社びわこリトリートセンターでレクチャーが開始されます。初日は、仏教について、龍谷大学の廣田デニス先生に講義をしていただきます。わたしも参加する予定です。

 小原克博 On-Lineに「宗教間対話 京都モデルは可能か」(『京都新聞』2005年11月14日、朝刊)を掲載しました。
 この記事では、既存の宗教間対話やモデル提示に対し批判的に書いていますが、歴史的な積み重ねがまったく無駄であるとは思いません。ただ、対話好きの人たちが対話の前提にしてきた「宗教多元主義」の考え方は、現実社会ではうまく機能していないように思われます。
 宗教多元主義の立場からは、一般的に、どの宗教も平等であり、それゆえ、どの宗教に対しても寛容でなければならないとされます。
 これが実社会で運用される際には(たとえば移民に対するホスト社会の対応)、イギリスやオランダに代表される「多文化主義」になったり、フランスに代表される「同化主義」になったりします。ドイツは、両者の中間あたりでしょう。
 異文化や他宗教に対し、各国とも独自の対応をしてきたことは事実ですが、ロンドンでの同時テロ事件によって、イギリスの多文化主義政策は根底から揺らいでおり、また、先日のフランスでの暴動により、同国の同化主義政策の矛盾が顕在化してきています。

 日本も対岸の火事として眺めることはできないでしょう。日本でよく語られる多文化共生は、比較的お気楽な多文化主義に基づいていますが、実際にそれを実践するときに引き受けなければならない思想的・政策的課題に対しては、まだまだ無頓着です。
 少子高齢化が本格的に進行し、外国人労働者が大量に入ってきてから考え始めるのでは遅いでしょう。
 上述の新聞記事では、こうした点ついては触れる余裕がありませんでしたが、こうした点を頭によぎらせながら書きました。

 昨日、ブッシュ大統領が京都に到着しました。それに伴う厳重な警戒態勢などについては、すでに各紙で報道されているとおりですが(たとえば、朝日新聞11/07)、同志社の周辺もすさまじいです。
 地下鉄今出川駅をあがってすぐの交差点角には20名くらいの警察官が固まっていました。全体で2500名もの警官が動員されているらしいですから、御所に隣接する同志社周りに多数配置されるのはわからないでもないですが、それにしてもすさまじい警備ぶりです。
 怪しげな人物は即座に職務質問されるようです。ちなみに、神学部のN先生は職務質問されたらしいです。N先生は、普段から怪しげな雰囲気を放っていますが(尊敬の念を込めて言っています・・・)、昨日は、異様に目立つ中東の服装だったので、警備の方がお声をかけたくなるのも仕方ないです。(^_^;)

 今、同志社では創立130周年の記念行事があれこれと行われています。
 今日、わたしは同志社香里高校での同志社創立記念礼拝で話をしてきました。900名ほどの高校生を前に話をしましたが、これだけの人数がいると、静かにさせる先生方も大変です。しかし、中にはとても真剣なまなざしで話を聞いている生徒もおり、けっこう話し甲斐がありました。
 ちなみに、先週は同志社大学の京田辺キャンパスでDoshisha Sprit Weekの一環として話しをしましたが、な、なんと来場者は5名ほど。しかも、ほとんどが職員さんです。それもそのはず、平日のお昼前の時間帯にやっても、学生は授業に出かけているのですから、来るはずありません。いくら130周年記念といっても、今時の学生さんは、授業をさぼって講演には来るということはありませんから、時間帯の設定など工夫の余地がありそうです。

 130年前、同志社は8名の学生をともなって設立されましたが、今や、大学だけでも、2万5千人ほどの学生がいます。規模は大きくなりましたが、その分、建学の理念や精神は、1万分の1くらいに希釈されてしまっているのかもしれません。難しい問題です。

051106a CISMOR国際ワークショップの2日目。
 今日は東南アジアのセッションと、総括的なセッションとが行われました。
 インドネシア、フィリピン、マレーシアの事例が報告され、それぞれ興味深かったのですが、マレーシアの宗教間対話の一端を紹介してくれたマレーシアNCC総幹事のシャストリ氏の話にとりわけ関心を引かれました。
 宗教間対話といっても、マレーシアはイスラームが国教の国ですから、イスラームが圧倒的な影響力と政治力をもっており、それに対等に並びうる宗教は存在しません。したがって、宗教間対話は、まず少数派であるキリスト教などが権利擁護などを求めて行われることになります。
 具体的な利害調整のために、政府が主導して宗教間対話が行われることもあるようです。また、これまで対話のテーブルに着くことを拒んできたイスラームが、9・11以降、態度を少しずつ変えてきたらしく、それは9・11が引き起こしたポジティブな変化であると指摘されていました。
 結局、わたしの関心を引いたのは、マレーシアでは宗教間対話の結果が、現実的な意味を持って日常生活に影響を及ぼしている、という点であったと思います。「対話のための対話」になったり、抽象的な題目のために行われている宗教間対話とは、質的に異なる点が新鮮に映ったのだと思います。

051106b 最後のまとめのセッションは、わたしが司会をしたのですが、とてもうまくまとめることなどできません。
 しかし、臼杵陽先生が非常に適切なコメントをしてくださり、わたしが言いたかったようなことを代弁してくれたので、かなり気が楽になりました。
 その一つは、「アジア」という概念がどのように成り立つのか、という問いです。西洋対東洋、欧米対アジアという二分法の中でもっぱら「本質主義的に」語られるアジアとは何なのか、という問題です。この二分法から、完全には自由になり得ていないことを自覚することは確かに大切だと思います。
 しかし同時に、臼杵先生は「戦略的本質主義」があってもよいと述べられました。わたしは、それをマイノリティのアイデンティティ・ポリティクスと言い換えましたが、その意味での「アジア」へのこだわりはあってよいと思っています。

 最後のセッションではできるだけ相互ディスカッションの時間を取りたかったので、一人あたりの発言はできるだけ短く、具体的には2分以内に、ということをしつこいくらいにお願いしたのですが、ほとんどかないませんでした。(^_^;)
 放っておけば、20分でも30分でも話し続けるような勢いですから、これはどうしようもありません。メンタリティの違いとして、あきらめるしかない状況でした。

 ともかく無事、全体のセッションが終わり、最後は森先生がうまくまとめてくれたので、かっこうがついたように思います。はー、疲れました。

051105a 今日は、CISMOR国際ワークショップの二つのセッションが行われました。
 北東アジアの事例として、マレーシア、韓国、中国の事例が紹介されました。

 韓国の歴史や事情については、比較的よく知っている方ですが、それでも今日はいろいろな発見がありました。東アジアの中でも、韓国では例外的に、キリスト教がナショナリズムに敵対するものと見なされず、むしろナショナリズムと一体となって受容されてきた経緯があります。簡単に言ってしまえば、抗日ナショナリズムにキリスト教は大きく関与してきました。
 ところが、そのような韓国ですら、1945年時点でのクリスチャンは全人口の4.5パーセント程度に過ぎませんでした。それが、経済的な発展や、朝鮮戦争での苦難などを経験する中で、今や国民の25パーセントがクリスチャンとなっています。
 今では、クリスチャンがマジョリティになってしまったが故の問題(神学の保守化や現世主義、教会の世襲制など)が様々に噴出しています。

051105b 中国のキリスト教に関しては、ごく基本的な知識しか持ち合わせていないため、聞くことすべてが新鮮でした。
 北京などの大都市では、キリスト教は非常に盛んになっていることが紹介されました。それだけに、政府はキリスト教の活動や出版物にかなり目を光らせています。実際、発表者の一人Gao先生が書かれたキリスト教に関する本は、反政府的な要素はまったくないにもかかわらず、中国本土では出版が許されず、香港でのみ販売されているということでした。
 また、聖書は一般書店では購入することができず、教会でのみ買うことできるということでした。しかし、コーランは一般書店で購入できるというのです。おもしろいと思いました。

 あと、公開シンポジウムのパネリストとして招待した松本健一先生と、「原理主義」の概念規定をめぐって、あれこれ話ができたのは、わたしにとっては大収穫でした。今、その方面の執筆をしていますので。なかなか集中できないのが問題ですが・・・

 今週末、CISMOR国際ワークショップが開催されます。その一部(第一セッション)は次のように公開されますので、都合のつく方はぜひお越しください。

CISMOR公開シンポジウム
「東アジアにおけるナショナル・アイデンティティの危機と宗教の役割」
日 時: 2005年11月5日(土)10:00~12:00
会 場: 同志社大学今出川キャンパス 寒梅館ハーディーホール
司 会: 森 孝一(同志社大学一神教学際研究センター長)
発表者: カマール・オニアー(マレーシア国際イスラーム大学)
     松本健一(麗澤大学)
     劉 義章(香港中文大学)
コメント:徐 正敏(延世大学)
     村田晃嗣(同志社大学)

※入場無料/同時通訳あり/事前申込不要

 なお、国際ワークショップの全体については下記ページをご参照ください。
http://www.cismor.jp/jp/research/lectures/051105.html

 今回は東アジアをテーマにしているのですが、うまく論点がかみあっていくか、少々不安です。それぞれのお国事情が異なりますから、それを超えた問題意識を共有できるかどうかが鍵になりそうです。
 ちなみに、わたしは全体のまとめにあたる第四セッションの司会にあたっており、かなり気が重いです。司会より、自由に発言する方がはるかに好きなことは言うまでもありませんが、立場上、毎度のことながら、司会業から逃れることができません(泣)。
 今回、韓国・中国・フィリピン・マレーシア・インドネシアから参加者を招へいしています。
 どういう議論が展開されるのか、楽しみ半分、不安半分、といったところです。

 国際ワークショップでおもしろかった点については、後日、ここで紹介したいと思います。

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自己紹介

近  著

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