小原On-Line

日記・コラム・つぶやき: 2004年11月アーカイブ

 「ハウルの動く城」を早速に見てきました。
 ジブリ・アニメが好きな人にとっては十分に楽しめる作品だと思います。「千と千尋」と同じように、魔女、魔法使いがキャラクターとして重要な位置を占めています。
 戦争に翻弄される世界を描いているタッチなどは「風の谷のナウシカ」を思い起こさせます。

 西洋史の中で、魔女や魔法使いはかなりネガティブな役割を背負わされ、また、実際に、魔女裁判では数々の犠牲者を出してきていますが、宮崎アニメの中の魔法使いたちは、そういう歴史からは比較的自由な形で描かれています。「魔女の宅急便」もその一例です。人間とは異なる(時として恐ろしい)力を持つけれども、人間社会の中で生きている魔女・魔法使いたち、という設定が共通していると言えるでしょう。

 20日の公開から2日間で邦画最高となる約110万人、興収約15億円を記録したことが、東宝から発表された、とのことです。宮崎アニメのファン層の厚さを物語っています。

■ハウルの動く城
http://www.howl-movie.com/

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 鳥取から京都に帰るまで、少しだけ時間があったので、境港の「水木しげるロード」(鬼太郎ロードとも言う)に行ってきました。米子から境港までは近そうに思ったのですが、電車で40分もかかります。上の写真が、米子と境港を結んでいる電車です。外装だけでなく、内装も水木しげるの妖怪たちが埋め尽くしています。たいしたものです。

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 水木しげるロードは、境港の駅のすぐ前から始まる800メートルほどの道です。道の両側には、妖怪たちの像が立ち並び、お店も、水木しげるワールドに合わせたものが多いです。
 わたしは、京都に帰る都合上、かなり早朝に境港についたので、空いているお店はまばらでした。ひっそりした、さわやかな朝の散歩を楽しみましたので、妖怪たちも、何かしら妖精のように見えてしまいましたが、薄暗い中で歩くと、けっこう不気味かもしれません。

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 上の写真は、妖怪神社。ちゃんとご神体までありました。

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 上の写真は、妖怪念力棒とその説明ですが、願い事は、「~とずっとラブラブでいられますように!」とか「三億円ジャンボが当たりますように!」といったものばかりで、妖怪のパワーを借りなければ成就しないような、背筋の凍るような願い事はありませんでした。(^_^;)

■水木しげるロード
http://www.mizukiroad.com/

 コメントで、Yokoさんが「神学論争」の言葉の『読売新聞』での事例を紹介してくださいました。これは重要なご指摘ですので、ここであらためて取り上げたいと思います。
 まずは、Yokoさんの紹介記事から

2004. 10. 23 [社説]極東条項 "神学論争"の愚を繰り返すな

> 避けるべきは、条文などの解釈をめぐる"神学論争"に陥ることだ。

(中略)

>こうした観点から、今後、野党が、神学論争を仕掛ける可能性がある。政府統一見解で当面は落ち着いても、司令部移転問題が進展すれば、極東条項論議が再燃するだろう。

(中略)

> だからこそ、神学論争ではなく、現実的な論議が必要になる。日本や国際社会の平和と安定という、最も重要な問題を二の次にしてはならない。

2004. 09. 06
[社説]宇宙開発 国家戦略としてこれで十分か

> しかし、宇宙開発と安全保障を巡っては"神学論争"が起きがちだ。宇宙開発利用を「平和目的」に限る、とした一九六九年の国会決議を、政府が宇宙の「非軍事」利用と解釈してきたためだ。

2004. 06. 16
[社説]通常国会閉幕 政治が負った「信頼回復」の責任

> 国会終盤で浮上した、イラク派遣の自衛隊の多国籍軍参加問題が、参院選に向けて争点となりそうだ。国際社会の中で日本が果たすべき責任と役割という観点から、政策判断として冷静に考えるべき問題だ。憲法解釈をめぐる不毛な"神学論争"の具にすべきではあるまい。


2004. 06. 10
[社説]多国籍軍参加 一段と重みを増す自衛隊の役割

> 憲法が禁じているのは、「国際紛争を解決する手段」としての武力行使だ。人道復興支援が「武力行使」であるはずがない。「一体化」論自体が、不毛な神学論争を蒸し返すような議論だ。

 このように見ると、確かにすごい! 「神学」部が抗議すべき、というYokoさんの弁もその通りだと思います。

 ちなみに、「神学論争」に関しては、わたしもかつて『朝日新聞』の取材に対して答えたことがあります(「神学論争」、『朝日新聞』窓)。

 また森先生が、10月26日に行われた関西プレスクラブでの講演の中で、やはり「神学論争」という言葉がマスコミにおいて、非常に安易に用いられていることを批判したとのことでした。森先生曰く、「神学論争」を"theological dispute"として外信部が海外に発信できるのか、とのこと。確かに、マスコミが「神学論争」という言葉をこれほど安直に使うのは日本だけの現象であって、外国では"theological dispute"は同じようには理解されないことでしょう。

 10月30日のCISMORの講演会・研究会に、読売新聞の記者の方が2名参加されました。そのうちのお一人の方が、わたしに「神学論争」に対するマスコミの意識を教えてくださったのですが、基本的には、「出口の見えない論議」を暗示する言葉のあやであって、よく考えて使っているわけではない、とのことでした。それは、この言葉を多用する政治家の人たちにとっても同じでしょう。

 用語法の問題については折に触れて指摘したり、抗議したりする必要があるのでしょうけれど、同時に、神学が決して不毛な議論をしているわけではないこと、現代社会に対し意味のある洞察を提供しうることを、具体的に語る必要があることをひしひしと感じています。

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