小原On-Line

旅行・地域: 2004年8月アーカイブ

 本日無事帰国しました。
 今回のイスラエル報告は、かなりがんばったと思います。タイトスケジュールのため、あまり余裕はなかったのですが、ほぼ毎日更新することができました。
 ちょっと落ち着いて、見聞きしてきたことを振り返りながら、今後ぼちぼちとイスラエル旅行番外編のような形で、ふと思いついたことを紹介できればと思います。
 帰りの飛行機の中で読んだ International Herald Tribune 誌(ヨーロッパ版)で、イスラエル関係の興味深い記事を読みましたので、明日は、それを紹介したいと考えています。
 日本で入手できる英字新聞・雑誌類は、当然のことながら、アジア事情に力点が置かれています。それはそれでよいのですが、ヨーロッパの情報が不足しがちなことも事実です。
 イスラエル・パレスチナ問題を考えるときは、ヨーロッパ事情と連動することも多いので、やはり、きちんと目配せしておく必要があると感じています。

 今回、写真もたくさん撮りましたが、ある程度セレクトしてから「マイフォト」の形で紹介したいと思います。お楽しみに!

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ハイファ

 カルメル山からハイファを眺めた風景です。ハイファは、テルアビブ、エルサレムに次ぐ、イスラエルで三番目に大きな町です。
 カルメル山は南北に20キロほど延びる山で、特に目立った頂上はないのですが、ヘブライ語聖書(旧約聖書)には、預言者エリヤがバールの預言者(異教の預言者)たちと戦ったという、いわれのある山です。


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2000年前のナザレの再現

 地中海とガリラヤ湖の真ん中あたりに、イエスが育ったナザレの町があります。ナザレのYMCAに隣接する場所に、2000年前の風景を考古学的な検証に基づいて再現したという場所がありました。3年前にできたばかりのものです。ワインやオリーブ油を作る道具などは、すでに他の場所でも見ていましたが、当時の家やシナゴーグの再現を見たのは初めてだったので、興味深かったです。
 上の写真は、ロバを使って小麦をひいている(脱穀している)風景です。


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告知教会

 ナザレで、イエスの母マリアは天使ガブリエルから、イエスを身ごもる告知を受けた聖書は記していますが、それを記念した告知教会(Church of Announciation)があります。どういうわけか、訪れた時間にはゲートが閉まっていて中にはいることができませんでした。
 ここには、世界中から聖母子を描いた絵が集められており、日本からは着物を着たマリアの絵が送られているようです。


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ナザレのマーケット

 上の写真はナザレの大通りに面する場所にあるマーケットです。狭い道の両脇に、所狭しと、いろいろなお店が立ち並んでいます。

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教会の前のモスク建築予定場所

 昔のナザレは、牧歌的な田舎町であったのかもしれません。しかし、今のナザレは、たくさんの人が住み、交通渋滞が絶えない、にぎやかな町になっています。
 そして、ここはユダヤ教やキリスト教徒より、はるかに多くのイスラム教徒が住んでおり、今やイスラム教徒の町としての性格が強くなりつつあります。
 上の写真は、教会の真ん前に建築予定のモスクの工事現場の入り口部分です。教会よりはるかに大きなモスクを教会に隣接して建てる、という傾向は、イスラエルの他の場所でも見られるようです。
 こうしたモスク建築のお金は地元の人が出しているわけではありません。オイル・マネーで潤っているアラブ諸国から資金が入って、イスラム教がキリスト教より優位に立っていることを示そうとする意図があるようです。
 建物の大きさで競い合っても意味がないと思いますが、これが今の世界の複雑な現実の一部を照らし出していることにも注意を払う必要があるでしょう。

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ガリラヤ湖

 ナザレから少し東に行くと、ガリラヤ湖が広がっています。ここは死海と違い淡水湖なのですが、英語ではSea of Galaleeという間違った呼び名が一般的になっています。本来は、Lake of Galaleeとなるはずです。ただし、ガリラヤこの数カ所では、地底から塩水が噴き出しています。その意味では、まったくの淡水湖でもないのですが。

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St. Peter's fish

 ガリラヤ湖は、イエスが最初の弟子たちを集めた場所としても知られています。その一人にペトロがいます。ペトロは後に、初代ローマ教皇ということになりますが、もともとはガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。
 そのペトロが当時捕っていたと言われているのが、上の写真のSt. Peter's fishです(本当の名前が何なのかは知りません)。白身が多く、とてもおいしかったです。


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パンに群がる魚

 そのSt. Peter's fishの稚魚と思われる小魚が、レストランの近くに群がっていました。ピタと呼ばれるパンを投げ込むと、百匹ほどの小魚が、わんさか近寄ってきます。また、そのパンをねらって、70cmはあると思われる、大きなナマズが水面に現れてきました。
 ちなみに、ユダヤ人はナマズを汚れた魚として食べることはありません。これは、ユダヤ教の食事規定によるのですが、うろこのない魚を食べることは禁じられているのです。ちなみに、うなぎも、ユダヤ教徒は食べません(わたしは大好きですが・・・)。


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ペトロの家

 ガリラヤ湖の北端にはカペナウムという町があります。ここには人はあまり住んでおらず、昔の居住地を再現した場所があります。
 そこには、ペトロが住んでいたのではないかとの言い伝えのある場所もあります。
 上の写真はペトロの像です。この場所を、2000年にヨハネ・パウロ2世が訪ねたそうです。
 この像を見ると漁師であったペトロと、イエスから天国の鍵を授けられたペトロとを見ることができます。


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メギド

 カペナウムを後にして、ウエスト・バンクの西側を通るルートで、空港のあるテルアビブに向かいました。途中、分離壁もありました。また、このあたりは、アラブ系住民が多く住んでいるので、途中、たくさんのミナレットが目に入りました。イスラエルが、ユダヤ教徒の国であるだけでなく、すでにたくさんのイスラム教徒が住んでいる国であることを端的に感じることができました。

 上の写真は途中で通過したメギドです。メギドは、ハルマゲドンとしても知られています。ヨハネ黙示録に記されている、世界最終戦争の起こる場所として有名です。もっとも、今のメギドはただの平坦な土地で、特別に世界の終わりを想起させるような場所ではありません。
 しかし、ハルマゲドンという言葉が一人歩きして、世界の終わりに関する様々なイメージを喚起してきたことは、おもしろいと思います。終末論のテーマですが、これについては、また違う形で言及したいと思います(わたしの専門分野の一つです)。

 このあとテルアビブのホテルを午前2時に出て、空港に向かい、他の国では考えられないほどの厳重なセキュリティ・チェックを受け、今、アムステルダムにいます。

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Open University

 23日はZichron YaacovにあるOpen Universityのスタディセンターに行きました。Open Universityは、日本で言えば、放送大学に近いものです。仕事をしていたりなどで、日中に大学に行くことのできない人々が自宅を中心に勉強できるようなシステムを作っています。単位を積み上げていけば、学位を取得することもでき、試験やチュートリアルを受けるためのセンターがイスラエルの各地にあるようです(本部はテルアビブ)。イギリスのOpen Universityと同じ理念を持っています。
 Zichron Yaacovは、テルアビブから少し北に行ったところにある、地中海を見下ろす高台にある小さな街です。そこにあるスタディセンターで、午前10時頃から夕方5時までレクチャーを受けたり、ディスカッションをしたりしました。レクチャーは以下のようなものでした。

Dr. Rivka Nir - The Origins of Apocalyptic Literature: Judaism or Christianity?
Prof. Ora Limor - Holy Places Shared by Three Religions
Dr. Ram Ben-Shalom - Jewish Martyrology in Spain
Dr. Avriel Bar-Levav - Jewish Rituals in a Social Context
Dr. Daphna Ephrat - Disseminating the Sufi "path" in Medieval Islamic Societies: Content and Practice
Prof. Miura- Mathematics in Medieval Islam
Prof. Henry Wassermann - Religion and Nationalism or the Invention of Tradition
Dr. Aviva Halamish - Jerusalem and the Three Religions

 ほとんどが歴史の専門家で、専門性の高い話はよくわからない部分もありましたが、バラエティに富む話を聞けたのは勉強になりました。
 彼ら・彼女らにとっては、日本人研究者と議論する機会はめったにないことなので、非常に歓迎されたのが印象的でした。


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シナゴーグ

 スタディセンターでよく学んだ後、Zichron Yaacovの街に出かけました。上の写真はシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)です。
 会堂の一番奥にある扉の中には、トーラーの巻物が収められているのですが、それも見せていただくことができました。上の3番目の写真では、トーラーなどを朗読する台の前にわたしは立っています。さて、わたしが手にしている銀の棒は何だと思いますか? 魔法使いの棒ではありません。
 トーラーを朗読する際に、指が文字に触れて、聖なる文字を汚さないように、この銀の棒を使って文字を追い朗読をするそうです。
 ちょっとしたことかもしれませんが、(神の)「言葉」に対するユダヤ人の誠実かつ繊細な態度をかいま見た気がしました。


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結婚式

 Zichron Yaacovの街をさらに行くと、結婚式をあげたカップルに出会いました。今の時期は、イスラエルでは結婚式のはいシーズンで、これまでも、いろいろなところで結婚式のカップルやパーティを見ました。
 上の写真を撮った後、花嫁・花婿が一緒に写真に入ってくれといったので、彼らのカメラマンたちの写真に収まりました。


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中東の伝統音楽

 夜は、スタディセンターで、伝統的な中東の音楽を聞きました。伝統的なユダヤの音楽、アラブの音楽が奏でられ、その歌声を聞きました。普段聞くことのない音楽であるだけに、非常に心に響くものがありました。
 ユダヤ人青年と、アラブ系青年が、音楽を通じて、民族のわだかまりをなくしていきたいと語っていたことも印象的でした。
 彼らのような若者が増えていってくれればと願わざるを得ません。

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 今、アムステルダムのシッポール空港にいます。空港ではじめて、ワイヤレスでインターネットにアクセスしています。便利な時代になったものです。

 アムステルダムに無事到着した記念に、イスラエルから一緒の飛行機に乗ったシーラちゃんと記念写真を撮りました。シーラちゃんは、神学部のコヘン先生のお嬢さんです。
 夏休みの宿題の日記を空港で見せてもらいましたが、すごく丁寧な日本語で書かれており、感心しました。まだ日本に来て日が浅いのですが、どんどん日本語が上達しているようです。
 飛行機に乗るバスの中で、「さむい」ではなく「さぶい~」と使い分けているのを聞きました。将来、きっと京都弁の達人になることでしょう。(^_^;)

 振り返ると、この二日、電話回線がなかったので、予想通り、BLOGの更新ができませんでした。国際派モバイラーのわたしでも、回線がなければお手上げです。

 というわけで、どこまでできるか、わかりませんが、この二日間の分をアムステルダムでの限られた時間の中で報告したいと思います。

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Yad Vashem

 午前中早くにYad Vashemというホロコースト記念館に行きました。遺品を展示している博物館というよりは、慰霊のための場所という性格が強いです。
 入り口の近くに、ハッと思わされる次のような聖書の言葉(ヨエル書)がありました。

HAS THE LIKE OF THIS HAPPENED IN YOUR DAYS OR IN THE DAYS OF YOUR FATHERS? TELL YOUR CHRILDREN ABOUT IT, AND LET YOUR CHILDREN TELL THEIRS, AND THEIR CHILDREN TO THE NEXT GENERATION! (JOEL2:3)

 感慨深げに写真を撮ろうとすると、ふざけたイスラエル兵がジャンプしてきたのが一番上の写真です。
 外に出て、その彼と話していると、仲間が集まってきて、集合写真をとりました(2番目の写真)。二十歳前後の若者ですから、かわいいものです。
 Yad Vashemについて詳しく知りたい方は、下のウェブサイトをご覧ください。
 Yad Vashemは、ホロコーストの犠牲者の追悼の場所であるだけでなく、当時ユダヤ人たちを助けた人々を記念する場所でもあります。そうした人々の記念する木が植えられています。映画で有名になったシンドラーの名前もありました。また、上の写真にあるように、杉原千畝の名前もありました。
 Yad Vashemは、ガイドの方に1時間くらいの案内をしてもらったのですが、何と10年近くも日本に住んでいたNerelさんという方に日本語でやっていただきました。Yad Vashemでのガイドの主要部分はビデオ撮りしたので、編集して広く活用できればと考えています。
 帰り際に、たくさんのイスラエル兵がいました(上の4番目の写真)。イスラエルは徴兵制度があります。男性の場合、高校を卒業後、3年間の兵役が義務づけられています(女性は2年間)。4年目にはいると給料をもらうことができるので、4年間兵役につく人も多いようです。大学に行く場合、兵役を終了してから、ということになります。


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Prof. Rachel Eliot at Hebrew University

 その後、夕方の5時過ぎまで、ヘブライ大学のInstitute of Asian and African Studiesで、レクチャーを聞きました。レベルの高い満足感のあるレクチャーばかりでしたが、最後に聞いた、ユダヤ教の世界的権威Rachel Elior教授の話は圧巻でした(上の写真)。ユダヤ教のエッセンスを力強くストレートに語る内容と話しぶりは、衝撃的ですらありました。質疑応答も活発になされ、しばし恍惚状態に陥るほどの知的興奮を得ることができました。ユダヤ的知性の高みに触れた、という感じで、大いに勉強になりました。


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Tel Aviv

 ヘブライ大学でのレクチャーの後、テルアビブに出かけ、そこで食事をしました。散策している途中、目に入ったのが上のレストランです。「京都Salsa」というすごい名前がついていました。

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Yaffa

 夕食をすませた後、テルアビブの近くのヤッフォに足を伸ばしました。ヤッフォは紀元前18世紀にまでさかのぼる、長い歴史を持った街です。何度も侵略と破壊を繰り返していますが、今は修復されてオスマン帝国時代の古い町並みを再現しています。夜のヤッフォは幻想的でした。

 明日はOpen Universityに行きます。その晩は、Open Universityのドミトリーに宿泊する予定ですが、ドミトリーなのでインターネットにアクセスできないかもしれません。


■Yad Vashem
http://www.yadvashem.org

 今日はエルサレムを離れ、死海の西側を回りました。今日は何と12枚の写真をつけて報告したいと思います。

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クムラン国立公園

 最初は、死海写本が見つかったクムランを訪ねました。死海写本の発見により、クムランにはクムラン教団(エッセネ派)と呼ばれるユダヤ教徒が住んでいたことがわかっています。2000年ほど前には、ユダヤ教と言っても、サドカイ派、ファリサイ派、熱心党(ゼロータイ)などに分かれており、クムラン教団は、自らをSons of light(光の子)と呼び、エルサレムの宗教指導者たちや世俗権力をSons of Darkness(闇の子)と呼んで、「浄さ」を重視した禁欲的な共同生活を送っていたと考えられています。
 そのクムラン教団が生活をしていた場所を発掘したものが上の写真です。
 このクムランで驚いたことが一つありました。どこかで見た顔の人がいるな~と思っていたら、東北学院大学の西谷先生(専門は旧約聖書)とばったり出会いました。こんなところで出会うとは、偶然のなせる業としては驚くばかりです。

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クムランの洞窟の一つ

 死海写本は全部で11の洞窟から見つかっています。その内の一つが上の写真です。写真で見ると、けっこう近そうに見えるのですが、実際には、かなり急な岸壁にへばりつくように存在しています。
 ちょっと危なかったのですが(ちゃんとした道はありません)、せっかく来たので、岩場をよじ登って洞窟にたどり着いて、その洞窟内部から撮ったのが上の2番目の写真です。
 かなり汗をかきましたが、洞窟からの眺めは絶景でした。


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マサダ国立公園

 マサダは、1838年にドイツ人の研究者に見つけられるまで、その場所がわからなかった、ユダヤ戦争(CE70-73)時の砦です。70年には、すでにエルサレムはローマ軍の攻撃によって、ローマの手中に落ちていました。最後まで抵抗し立てこもった要塞がマサダでした。しかし、最後はローマ軍に包囲され、侵入される前に900名ほどの人たちが自決したと言われています。ユダヤ戦争の一連の出来事は、ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しくかかれているのですが、発見されるまでは、長らくマサダのことは忘れられていました。
 発掘されてからは、ユダヤ民族の誇りと結束の象徴として、多くのユダヤ人たちが訪ねる場所となっています。
 マサダ陥落後、ユダヤ人たちの2000年近いディアスポラ(離散)の歴史が始まったわけですから、ユダヤ人にとって、特別の意味を持つことは想像に難くありません。
 もともとはヘロデ王が離宮として建設しただけあって、当時の最高の技術が用いられていました。砂漠の中にありながら、4万トンもの水を貯蔵できる貯水槽や、ローマ式の温水式浴室(上の2番目の写真)などが400メートルもの断崖絶壁の上に存在していたのですから、驚かざるを得ません。
 今回は、上の3番目の写真にも写っているケーブルカーで頂上まで登りました。15年前、ドイツ留学中に来たときは、まったくの貧乏旅行であったため、頂上まで歩いて上り、たどり着いたときには、ふらふらになっていたことを、なつかしく思い出しました。


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死海

 マサダで暑い思いをした後、死海で泳ぎました。上の写真にあるように、濃い塩分のためプカプカと浮いてしまうのです。おぼれることが絶対にないので、対岸のヨルダンまで泳いでいこうかと思ったほどです。(^_^;)
 上の2番目の写真にも写っていますが、女性が体中に泥を塗る光景もよく見られます。お肌に非常によいそうで、イスラエルのおみやげ屋さんでは、死海の泥をよく見かけます。日本へのおみやげとしては、あまり歓迎されそうにありませんが・・・
 プカプカ浮かびながら、雲一つない空を眺め、対岸に広がるヨルダンの山々を眺めていると、地球の広大さを感じるとともに、俗世のことに煩わされている自分の存在がばかばかしく思えてきます。ゆったりとした空間の広さ、悠久の時の流れに身を任せるような感覚が、少しよみがえってきたようにも思いました。


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死海周辺の野生動物たち

 さて、上の写真では今日見た野生動物をあげました。らくだも羊も、ベドウィンの人たちにとっては大昔から変わることのない生活の友なのでしょう。
 ひょこり現れた鹿(何という種類なのかはわかりませんが)は、カメラ目線で、じっとこちらを眺めていました。これは、なかなかいい写真だと自分では思っています。(^_^;)
 これらの野生動物は、日本ではあまりなじみがありません。聖書には「主はわたしの羊飼い」という表現があちこちに出てきます。羊は羊飼いがいないと、同じところをぐるぐる回って、最後は死んでしまいます。羊を導き、羊の命を守る羊飼いと羊の関係は、やはり、こうした場所で直接に見ると、そのリアリティを増してきます。


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SHABBAT LIFT

 ユダヤ教にとって土曜日は、労働をやめる安息日です。ユダヤ教では、一日は日没から始まりますので、金曜日の日没から、翌日の日没までが安息日となります。もちろん、日没の時間は毎日変わりますので、安息日が何時から始まるかは、新聞などに書かれています。
 上の写真は、宿泊しているホテルにある3台のエレベータの内の一つです。"SHABBAT LIFT"と書かれています。正統派ユダヤ人には、安息日にエレベータのボタンを押すことも、労働になると禁じられています。したがって、ボタンを押さなくても、エレベータに乗れるように、安息日になると"SHABBAT LIFT"はボタンを押さなくても各階に自動的に止まるように動きます。
 "SHABBAT LIFT"はイスラエルのほとんどすべてのホテルにありますし、また、大きな建物には多くの場合、"SHABBAT LIFT"が設置されています。
 日本人からすれば、安息日は馬鹿げた習慣に見えるかもしれません。しかし、特定の日に、すべての労働をやめる、という習慣は、拘束的なものではなく、むしろ、すべての労働から解放され、本来の自由を回復する日であると考えることもできます。もちろん、ユダヤ教では、その自由を神への礼拝にささげるわけです。
 (やむを得ず!)朝まで仕事をして、日が昇る頃に寝るような生活をすることのあるわたしにとっては、ある意味で、安息日はうらやましい習慣でもあります。24時間オープンのコンビニが所狭しと立ち並んでいる日本社会では、時間のメリハリが、どんどんと失われていっています。時を見極める目が失われていると言い換えることもできるでしょう。
 「すべてに時がある」と聖書は語りますが、みなさんは、時を見極めることのできるような、成熟した時間感覚をお持ちでしょうか。あるいは、スケジュールを埋めたり、それに追われたりするだけの生活をしているのでしょうか。
 そうしたことを、ふと考えさせられた一日でした。

 今日は不覚にも、カメラのバッテリーが途中で切れてしまい、写真は分離壁関係しかありません。

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分離壁についての説明を受けているところ

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Abu-Disの分離壁

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分離壁の上の落書き

 イスラエル国内で分離壁の問題に関わっているグループはいくつかあるようですが、その中の一つ Rabbis for Human Rights の方に案内をしてもらいました。
 最初は地図を広げて、従来の境界線と分離壁の位置関係について説明を受けました。イスラエルの領域は短期間の内に数回変わっていますので、建国以来の歴史、特に中東戦争やインティファーダーのことを知らなければ、境界の変化にどのような原因があったのかを理解することができません。
 今回は2カ所の分離壁を訪ねました。いずれの箇所でも、もともと一体となっていた共同体が不自然な形で分断されてしまう点に問題があります。
 ハーグの国際司法裁判所が分離壁の建設の違法性をすでに指摘して、国際社会もその線で分離壁に対する批判をしていますので、わたしは、てっきり Rabbis for Human Rights も建設反対であると思いこんでいました。
 しかし話を聞いてみると、必ずしも反対ではないのです。自爆テロなどから子どもたちを守るためには分離壁は、場合によっては必要だというのです。テロによって市民生活が脅かされているという現実が重くのしかかっています。
 必要ではあるけれども、一体となっていたパレスチナ人たちの生活を分断することはよくない、つまり、分断しないように壁の位置を移動するよう、人権団体は求めているようです。こうした微妙な理解は、日本ではまだ十分に知られていません。
 夜、安息日の集会に参加した際に、Rabbis for Human Rightsのリーダー格の人と話をし、日本でこうした実情を講演してほしいことを伝え、これから日程の調整にはいることになりました。

 分離壁のあと、美しいベネディクト派の教会を訪ね、そこで、イスラエル兵からの信頼が厚い修道僧の話を直接に聞くことができました。

 また、その後、Biblical Garden Yad Hashmonaを訪ねました。ここでは、聖書時代の生活風景を再現しており、へぇ~と納得させられるものがたくさんありました。
 しかし、ここでは何よりMessianic Jewであるガイドの人からその信仰理解を聞き、討論できたことが、貴重な体験となりました。Messianic Jewは、イエス(彼らはイエシュアと言います)を救い主と信じるユダヤ人で、同時に、イスラエルを神の約束の地と考えるシオニストでもあります。Messianic Jewのことは知っていましたが、直接に会って話を聞ける機会など、そうそうあるものではありません。
 対話のほぼ全体をビデオで撮ったので、これは何らかの形で公開できればと考えています。

 この日(金曜日)夕方からはユダヤ教の安息日が始まりました。先にも述べたように、興味深い安息日の集会に参加しました。わたしにとっては初めての経験であったので、考えさせられることがたくさんありました。安息日についても、またあらためて報告したいと思います。

 だんだんと余裕がなくなってきましたが、眠たい目をこすりながら、今日あったことを簡単に振り返ってみたいと思います。

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発表中の一こま

 朝9時から夕方5時半まで、Schechter Institute of Jewish Studiesで、みっちりと研鑽の時を過ごしました。このワークショップは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三つのセッションで構成されており、わたしは、その中でキリスト教の部分を担当しました。
 飛行機の中で原稿やパワーポイントによるプレゼンを準備するというせっぱ詰まった有様でしたが、何とか無事に責任を果たすことができました。"War and Peace in Modern Japan: From the Christian Perspective"というタイトルの発表をしました。
 一部、2月の国際ワークショップで発表したものを流用したとはいえ、内村鑑三を軸にしながら、日本の近代史を英語で振り返るのは、わたしにとっては骨の折れることでした。
 ディスカッションは盛り上がりました。参加者のラビの中には従軍経験者もおり、イスラエルで絶対平和主義(Pacifism)を語ることは簡単ではないことが率直に吐露されたり、わたしが問題提起した「現代における偶像崇拝(Idoltary)」についてはユダヤ教においても関心が高いことが議論の中でわかりました。
 上の写真は、発表に入る前に、ちょっと笑いを取ろうと、最初にイスラエルを訪ねた15年前の小話をしているところです(右手にいるのが、わたし)。直前の発表でヘッシェルというユダヤ教研究者の啓示や預言者理解が話題になっていました。そこで、「わたしは15年前、シナイ山に登って神の声を聞くことができるかと思ったが、何もなかった、いや実は、沈黙によって(by silence)神の声を聞いたのだ」といった冗談を言ったところ、「そしたら、お前は預言者なんだ!」とタイミングよく突っ込みを入れてくれました。聖書的な冗談のやり取りをできるあたりは、ラビ的知性を感じさせられました。冗談を言っても、シーンとすると、ばつが悪いですが、ユーモアが通じて笑いで出ると、ほっとします。

 今日一日で、ユダヤ教についてはかなり理解を深めることができました。
 Schechter Instituteはconservative Jewに属しますが、イスラエルでは少数派になります。イスラエルではorthodox Jewが圧倒的多数を占めており、また、国からの財政的支援も受けているということを、今日初めて知りました。また、外国に赴任する外交官たちのユダヤ教教育の一部もこのInstituteが引き受けているそうです。それだけ、一般的にはユダヤ教についての理解が、イスラエルの中でも、十分ではないことを物語っています。
 もっとも、小学校の段階から、ずばり「聖書」という時間があって、イスラエル史を中心にみっちりと勉強はさせられているようなのですが。
 下の写真は、今日のワークショップに参加した人たちと、Instituteの前で取った記念写真です。

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参加者との記念写真

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死海写本館

 このあとすぐ、研究所のすぐ裏手にあるイスラエル博物館に行きました。その中でも目玉の「死海写本館」(Shrine of the Book)に行きました。1947年に死海のほとりのクムランの洞窟でベドウィンの少年が偶然に見つけた写本が、そもそもの始まりですが、ユダヤ教や初期キリスト教の時代状況を知る上で画期的な資料となりました。一大センセーションを起こし、20世紀最大の発見とも言われています。
 今回は、ラッキーなことに、死海写本の研究で有名なAdolfo Roitman氏(死海写本館館長)に、じきじきに解説をしてもらいながら、写本の数々を見ることができました。情熱的に、かつ、わかりやすくユーモアを交えて語る語り口に魅了されながら、死海写本のすごさを再認識させられました。


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分離壁

 さて、上の写真は夕景にうかぶ分離壁です。はっきりとは見えないかもしれませんが、地平線中央にある壁上のものがそれです。ホテルから撮った写真ですが、街の中心からすぐのところに分離壁があることがわかります。
 明日、分離壁を訪れ、分離壁建設の反対運動をしているユダヤ人団体の話も聞く予定です。

 今日は、エルサレム旧市街を中心に、かなりの距離を歩きました。写真もたくさん撮ったのですが、その一部を紹介しながら、エルサレムの情景の一部をお伝えしたいと思います。

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オリーブ山にて

 最初にオリーブ山に行きました。オリーブ山には、イエスが主の祈りを教えたと言われるような場所や、そのほか、いわくつきの場所が多数あるのですが、どれも歴史的な根拠は、あまりありません。
 何と言っても、ここでの最大の魅力は、旧市街地の全景を見渡せるということでしょう。上の写真のわたしの右手後方には、小さいですが、黄金の屋根を持つ「岩のドーム」が見えています。


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嘆きの壁

 エルサレムの旧市街を取り囲む城壁には8つの門があります。その一つ、Dung Gateをくぐって、嘆きの壁が見える場所に行きました。このあたりにアプローチするためには、厳しいセキュリティ・チェックを取っていかなければなりません。
 暴動などがあってから、強化されたようです。ちなみに、15年前、わたしが初めてエルサレムに行ったときには、こうした検問はまったくありませんでした。時代の変化を感じさせられます。
 上の写真の嘆きの壁の前をよく見ていただくと、三つのセクションに分かれているのがわかるかと思います。一番奥が男性用の場所、手前が女性用の場所、真ん中が、そのどちらにも行きたくない人の場所であるらしいです。主に、男性・女性の区別をすることを快く思わない改革派のユダヤ教徒(Reform Jew)の人たちのセクションになっています。ちなみに、イスラエルにおいては、正統派のユダヤ人(Orthodox Jew)は、アメリカでは比較的多い改革派のユダヤ教徒たちの考え方にかなり拒絶的な姿勢を示しています。


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岩のドーム

 嘆きの壁の先を少し進むと、岩のドームが見えてきます。岩のドームは、ムハンマドが昇天したと信じられている場所です。中には、巨大な石がありますが、現在では、一般観光客は中に入ることができません。15年前には中に入ることができました。


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ヴィア・ドロローサ

 定番ですが、イエスが死刑判決を受けてから、十字架を背負い、十字架にかけられ、葬られるまでの道のりをたどる「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)をたどっていきました。14のステーションがあります。半分くらいは、聖書の記述よりも伝説に基づいています。これらは映画『パッション』でも取り入れられています。
 上の写真は、その道の一風景ですが、真ん中に銃を持った若いイスラエル兵が見えるかと思います。エルサレムのいたるところに、銃を持った兵士が立っており、この風景は15年前から変わりません。平和な(平和ぼけした?)日本とは対照的な風景です。


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聖墳墓教会

 ヴィア・ドロローサの終着点は聖墳墓教会の中にあります。上の写真は、十字架からおろされたイエスが布にくるまれたと言われている場所です。記念の壁画の前には、たくさんのロシア系ユダヤ人の観光客がたくさんいました。イスラエルには、ロシアからの移民がかなりたくさんいます。
 最近は、フランスやドイツに戻っていくユダヤ人たちも多くなってきたと聞きました。ホロコーストの傷跡がいまだに深くありますが、ドイツ政府の手厚い補償などもあって、ドイツでのユダヤ人の数は、近年増加傾向にあります。ただし、その多くはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に通う宗教的なユダヤ人ではなく、あまりそうしたことには関心を示さない世俗的ユダヤ人のようです。
 それゆえに、ユダヤ人の数が増えても、シナゴーグの数はあまり増えないのです。わたしが4月にベルリンを訪れた際にも、大きなシナゴーグが一つしかないといった事情は、こうしたことと関係しているのです。

 昼間は暑いですが、風があったので、比較的過ごしやすかったです。夜は、もう寒いくらいです。

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